初めから夢だと気付いていた。
記憶の繰り返しだと知っていた。
ただそれでも変わらずこの胸が痛むのは。
夢でなかったあの瞬間自体がまるで夢のようだったからだ。
14:記憶
母は美しく優しい、愚かな人だった。
父は厳しく巨大で、俺にとって恐怖でしかなかった。
父は何においても完璧が好きだった。自分の人生において失敗は許さず
俺と母もその付属品だった。
父の気に食わない言動、行動は許されず、それに従わなければ異常なまでの暴力で叩き伏せられる。
父に殴られ、しかし声を上げて泣くことを許されていなかった俺は、庭の隅で蹲り父の怒りが収まるのを待った。
殺される、と、何度も思ったが、逃げる場所も無かったし、何より。
“・・・おいで、”
父に隠れては俺を抱きしめる母を失いたくはなかった。
母には逃げる術はあったが、俺を置いてゆくことができない愚かな人だった。
そんな母の腕に包まれたその瞬間だけは、涙を流すことを許された。
そして。
“ごめんなさい”
父に殴られ痣だらけの俺の顔を撫でて。
固まりかけた血を拭って、呟く、母の涙を。
俺はなによりも愛してた。
肝心なのは幸運ではなかった。
その頃の俺は確かに不運ではあったが、不幸ではなかったと今でも思う。
あの腕は俺の為に広げられ、俺の幸せを願っていた。
だから俺は母の腕の中で泣きながら、母の愚かさを恨んだが、それでも不幸ではなかった。
“母さん?”
その日、学校から帰った俺が目にしたのは倒れた母と、その傍に立つ父の姿。
母はゆっくりと頭だけを動かし、あの綺麗な涙を流して。
“ごめんなさい”
俺に、そう言った。
眠るように目蓋を閉じた母を呆然と見て、動かない父に視線を向ける。
赤。
赤く煌めく、あれは。
分からないことが全てで、何を問えばいいのかすら暫らく思いつかなかった。
“母さんに、何をしたの。父さん”
父は応えない。ただゆっくりと自分の手の中にあるソレを見て薄く笑う。
“母さん?”
母に近付き、膝を折った。
触れた母の体は冷たく、力を加えると人形のように無造作に動く。
触れた手に、ぬるりとした感触が走った。
“・・・・なに、?”
暗くて見えない。
けれど部屋に充満する匂いに、その時初めて、気付いた。
鉄分の匂い。
血だ。
“母さんを、殺したの、父さん”
不思議と声すら震えなかった。
頭が順応できていない証拠。
父は手に握っていたモノを床に落とし、自分の服を握った。
赤黒く染まったシャツ。
父は舌打ちをして、言った。
“汚らしい”
俺は床に落ちた包丁を手に取り、父に近付いた。
隠すこともしなかったが、父は気付かない。
既に父は何も見えていないのだと、そんな事だけは冷静に判断できた。
世界が一瞬でスローモーションになる。
“どうして、母さんを殺したの”
“どうして?どうしてだと?この女は私に言ったんだぞ、この私に”
“何を”
“を自由にしてやれだと!?未来を返してやれだと!?偉そうに、意見しやがって!!”
“父さん”
“私で十分でしょう!?馬鹿な女だ、自己犠牲か!!私を悪者のように言って被害者の顔をして・・・!!”
“父さん”
“私はお前達を養ってやっているんだぞ、私の物だ!好きに使って何が悪い!?”
母さん。
どうしてあなたが謝るの。
あなたは抱き締めてくれたじゃないか。
あなたは泣いてくれたじゃないか。
あなたは。
俺の幸せを、誰よりも願ってくれたじゃないか。
“でも、母さんは父さんを愛してたよ”
鈍い衝撃が、生暖かい液体が、体に伝わった。
崩れ落ちる父が、母の体と重なった。
冷たいものが頬を伝う。
涙だと気付く。
そして自分の想いにも気付いた。
“でも、俺は”
“あなたを、あいしてた”
夢はいつも、そこで終わる。