尸魂界に踏み入れた一護は、巻き上がった土煙がはれる中でそっと天を仰いだ。
どこか遥か彼方にいる神に祈るような仕草だったが、一護は神を信じてはいないし必要ともしていない。
空を見上げるのはそこに懐かしい色があるからだった。

もう声も姿も思い出せないけれど、だけどずっと鮮明に心を縛り付ける人の名前を囁く。

霞がかった記憶の向こうに確かにいる、名前。
この名前とあの日々さえ忘れなければ自分は迷いはしないのだと一護は知っている。

「・・・

お前に、あいたい。







「・・・・」

が“なにか”に反応して顔を上げたのと同時に地響きが起こった。
細かく揺れる体を無視して視線を窓の外に向ければ瀞霊門に連なる塀が次々と天から降ってきている。
何もかもを拒絶する壁であり、何もかもを閉じ込める檻。

響く轟音が静まるまで冷静な面持ちで眺めていただったが
生き物の呻き声のように空気を渡るその音が消えたのを確認し、ゆっくりと立ち上がった。

その横顔は晴れ晴れとした、青空のよう。







41:メメントーモリー












瀞霊門の外側、西側にある白道門の目の前で一護は巨大な門番、兕丹坊と対峙していた。

駆け寄ろうとしたチャドと井上の前に振り下ろされた斧はいとも簡単に地面を穿ち、
岩盤がめくれ上がって一護と兕丹坊を他の者から隔絶する壁になる。

兕丹坊はその壁越しにゆっくりと見下ろして口を開いた。

「お前たづ行儀が良ぐねえな。さては田舎もんだべ?いいが?都会にはルールってもんがあんだ。
 ひどづ、外から帰っだら手を洗う。ふだづ、床におぢだもんは食わね。
 みっづ、決闘する時は一人ずつ」

ちなみにこの都会ルールは日番谷が兕丹坊に教えたものであるが
そもそもはが日番谷に教えたものである(は一時期日番谷に嘘を教えて楽しんでいた)。

黙っていた一護は暫く何かを考えた後、顔を空に向けて腹から声を出した。
この時の一護は自分の声が響く事が純粋に嬉しいかった。
に別れを告げられたあの瞬間は、今思い出しても悲しいほど声が出なかったから。

「おーい、チャドー井上ー」
「く、黒崎君!?大丈夫!?怪我は無い!?」
「おー、ピンピンしてらぁ」
「ちょ、ちょっと待っててね、今から・・・」
「あー。その事だけどな、井上」

ほんのひと時目蓋を閉じて、一護は自分の記憶を探る。
これは一護が浦原と過ごした十日間で繰り返してきた事だった。
自分の記憶を繰り返し辿ってはの存在を確かめる、それはもう癖になってしまっていた。

そうして何度繰り返しても肝心な所がエンピツで黒く塗り潰されたみたいに真っ黒で、今はそれがの居た証で。
なんて悲しいのだろう。

一護は、今度はゆっくりと声を出した。

「オマエとチャド、そこで何もしねーでじっとしててくんねーか」

だってきっとアイツならそうするから。
オレの中に残っているアイツなら必ずそうするから。
馬鹿みたいに自分は王子だと言って、自分ばかりが傷ついても微笑んで。

一護はまだ大丈夫だ、と、どこか安堵して深呼吸をし、目蓋を持ち上げた。
まだちゃんと、大事な事は覚えている。
悲しむだけで終わらせるにはまだ早すぎる。いつだって、早すぎる。


「頼むよ、井上」


冀う、声。
井上は言葉を失い、それ以上何かを言う事はできなかった。
一護本人は不審なほどに落ち着いている。
チャドは無言で足を止めて壁の向こう側を見るように顎を少しだけ上げた。

「できるのか」

優しく問う声に一護は笑う。
チャドの目には映らなかったが、それは一護が久々に見せた“一護らしい”笑顔。

「・・・やるんだよ、大事なのはそういう事だ」










「・・・話はすんだだか・・・?」
「別に?・・・待っててくれなんて、頼んだ憶えはねーけどな?」

斬魄刀を無造作に携えた一護を前に兕丹坊は告げる。
それに対し一護は酷く冷めた視線を返しながら肩を竦めて見せた。
軽口で応えながらも兕丹坊の片眉が神経質にピクリと跳ね上がったのを見逃さない。

「・・・やっぱす、お前も田舎もんだな。礼儀ってもんがなっちゃねえ」

ひゅ、と、空気が切れる音がする。
兕丹坊はその巨体に合った大きさの斧を振り上げ、そのまま振り下ろす。

「待っでもらっだら、ありがとだべ!!」

轟音と、衝撃。吹き飛ぶ岩と巻き起こる砂煙。
けれど一護はその凄まじい一打を片手で簡単に受け止めてしまった。

「な、なん・・・何だ、お前え・・・!?」

兕丹坊の目が徐々に驚愕の色を宿し見開いてゆく様を冷静に見上げて一護は口を開いた。
涼しげな表情はまるで“力”を感じさせない。

「・・・こっちが構える前に斬りかかるのは、礼儀知らずって言わねえのか?」

けれど確かに絶大な力が存在している。
この時の兕丹坊の目には確かに、一護が得体の知らない恐ろしい生き物のように映っていた。






いとも簡単に兕丹坊を退けた一護は通行を許可された。
芋づる式に他の面々も通行許可を貰い、真面目な性格の石田は少し腑に落ちない様子である。

「・・・一護っつったな、お前え」

よく見れば優しい瞳をした兕丹坊は、巨体を屈ませて一護に語りかけた。
片腕はそっと門に触れている。

見上げる巨体に傷は無くて、武器だけを狙って攻撃してよかったと一護は心底思う。
誰も彼もを傷つけるのは強さじゃない。
自分が目指す強さは少なくともそんなものではない。


「ごん中は強え連中ばっかだど。・・・それでも行くが?」
「ああ」
「・・・大事なもんが、あんだな?」
「ああ」
「そうが」

一護は迷いを見せなかった。
戦う最中も、今も、微塵も見せない。
本人にしてみればただその暇が無いだけなのだが、周囲は心打たれるものがある。
真っ直ぐに光るような、そんな双眸で視線を返す一護に兕丹坊は柔らかく微笑んだ。

「それなら、いいだ。ほれ、今門開けるからのいでろ」


大きな音と、声が鳴り響く。
そして門を持ち上げた兕丹坊は。

「あ・・・ああ・・・・あああああああああ・・・」

門を開いたその目の前に立つ二人の死神の姿を見た瞬間、ただ本能的な畏怖と恐怖に全神経を奪われた。
足元から這い上がるような、吐き気を促すほどの威圧感に全身が震える。

「おいどうした・・・、・・・ッ!?」

呻くだけで動かない兕丹坊の影から顔を出した一護は、
その姿を目にした瞬間弾かれたように叫んでいた。
声も姿も思い出せなかった一護は、それでもこの時さえ、一瞬も迷いはしない。



!!」



それがどれだけの心を救ったのか、この時の一護には知る術など無かった。