間違わずに、名を呼ばれること。
忘れられずにいられること。
それがどれだけ幸せか俺は知っている。







42:  Distance of gentleness and cruelty





は一瞬だけ、唖然として言葉を失っていた。
だがその様子の変化に気付いたのは市丸だけで、当の一護は気付かない。それはにとっては幸運だった。

偽装するかのようにゆっくりと陰惨に微笑んで一護ではなく兕丹坊を見詰る。

「何してんの、お前」

その声音は冷徹で、淡々としている。感情の揺らぎを一切窺わせない。
それが神さえも欺くと言われるの偽証の技。

「・・・何してんだって、聞いてるんだよ門番」

続けて言い放ちながら思い出すのは山本と交わした密約だった。

(取引だ、じーサン。俺に対する一切の束縛は許さない。その代わり)
(その代わり、“仕事”はしてやるよ。俺の意思で)

山本は、その取引に意味があるのかと問うた。
何も変わらないのではないかと。

その問いは山本の隠しきれないに対する優しさであり、本来ならば口にするべきものではなかった。

眩暈がするほど長い時間、を残酷に縛り続けていた過去。それを無かった事にはできない。
今更優しいフリをしてもただの傲慢で、エゴだった。

は不敵に微笑んで、しかし誰にも気付かれないような奥底に少しばかりの傷を含んで、告げた。

「あるさ。言ったろ?重要なのは、俺がそれを選んだかどうかだ」







言葉も無く震えるだけの兕丹坊を前に、信じられないほど陰惨な笑みを湛えては立っている。
それを見た一護は言い知れない恐怖を感じ愕然としたが、それでも引くことはしない。

と過ごした日々、その中で生きた自分。
そのふたつが逃げる事を許さなかった。

、帰ろう」

無意識に、そう言葉が出ていた。
一護の目には確認できないほど小さくの手が震える。

近くに居た市丸はそれも見逃さなかった。
冷たいままの目を寄越して薄く笑う。

「帰ろう。皆待ってる。会いたがってる、お前に」

一護の言葉は嘘であり、けれど真実でもあった。
無理矢理に奪われたものを悲しまない人間はいない。それを愛していたなら、なおさらだ。
脳は徐々に冷静さを取り戻し、一歩前に出た。

「ルキアと、お前と、俺達で。あそこに帰るんだ」

春には教室から見える桜が綺麗だった。
夏は海に行ったし、花火もした。
秋は色の変化した葉に見惚れたし、冬は雪を投げて遊んだりもした。

毎日からかわれて、休みの日には部屋掃除を手伝わされて、時には喧嘩をして、苛立ったりもしたけど。
それでもいつも俺は救われていたんだ。

一護の記憶を塗り潰していた黒い影がみるみる取り払われてゆく。
そして見えたのはの笑顔ばかりだった。

「帰るんだよ、・・・それがハッピーエンドってもんだろ?」


一護の声は突風のようにに吹きつけた。
けれどそれでも揺るがないのがという男だ。

心の中で一度だけ一護に向かってありがとうと呟いたが、ただそれだけだった。

はここにきて初めて兕丹坊に向けていた視線を一護にゆっくりと向けた。
その表情は一護の記憶に残るうつくしいものと同じで。

だから尚更、聞えてきたの言葉に一護は酷く傷ついた。

「勝手に決めるなよ、テメエがさ。勘違いするんじゃねえっつうの。」

がダンッと足を踏み鳴らすと砂埃が舞い上がる。
身に纏った漆黒の着流しがそれに揺れて、白い肌が見え隠れする。

「初めから俺の場所はここで、俺の仲間はお前じゃない。
 わかんねえかなー黒崎・・・お前が敵に回したのは俺でもあるんだぜ?」

は悠然としたまま脇差を抜き放つ。一護はそれを呆然と眺めていた。
やめてくれ、と思っていた。

やめてくれ。
そんな風に俺を見ないでくれ。
そんな声で俺を呼ばないでくれ。

一護の薄れた記憶の中に残っていた“”という男はけしてこんな顔をする男ではなかった。
いつでも幸せそうに微笑んで、馬鹿な事を言っては誰かとじゃれあって、楽しそうに、いつも。

失わないように握り締めていた愛しい記憶が掌の中で砂になって零れていくような感覚。
守り続けた記憶が、嘘になってしまう。悲しいほどに脆く崩れ去ってしまう。

表情を揺るがした一護に小さく舌打ちをして、は声を荒げた。

「その背中のものを抜けよ、黒崎。これが現実ってやつだ」

それが本当なら、なんて残酷なんだ。
一護は過去を捨てきれないままに、そう、思った。

冗談でも、悪ふざけの延長でも、に剣を向けるだなんて絶対に出来ない。
自分の中にある決して違えてはならない何かを裏切るような行為だ。

一護はただ真っ直ぐにを見据えた。
掌に残った最後の砂を握り締め、響く声を発して告げる。

「お前こそ勝手に決めるな、。俺をあんまり見くびるんじゃねえよ!」

確信なんて無かった。根拠なんて何一つ無かった。
そんなものを持てるような何かをは残してはくれなかった。
それでも一護は信じた。

優しく流れたあの時間を、幸せ過ぎた日々を、の笑顔を。
そして、何よりも自分を。

「俺がお前を好きになったんだ!それを嘘だとは言わせねぇ!」







山本との密かな取引を終えたあの日の夜。
日番谷の腕に抱き締められたは、少しだけ泣いた。

それは後悔でもなく、悲しみでもなく、名をつけられない感情の産物だった。

どこまでも身勝手で傲慢な自分の決意。
自分を愛してくれた人を尽く切り捨てて、ただ、自分が望む通りの未来を冀う。
利用して、巻き込んで、追い詰めて。

ルキアに告げた言葉に嘘は無かった。
ルキアは一護が守り、一護は自分が守る。

一番手っ取り早く簡単で、そして何もかもが元通りになる方法はそれしかなかった。
いつでも一護に陰ながら助力できる立場を保ちながら、全てを成し遂げるには。


最期には、一護に、殺してもらうしかないのだ。
こうして優しく自分を抱き締める細く温かい腕さえも、守り抜く為には。