出逢った頃の彼は、陰惨で、けれど心を惹いてやまない毒花のような男だった。
あの生臭く鉄分を含んだ匂いが誰よりも似合う、そんな男だった。
Il profumo di veleno
今は昔と呼べる過去、まだが今のではなかった頃。
その頃の市丸は毎晩のように宵闇の中でいつも何かを待っていた。
銀色の細い髪を夜風に揺らして、人知れずひっそりと。
近付く気配に笑みを零して体温が移った壁から背中を離す。
「ご苦労さん・・・仕事熱心やなあ。こない遅くまで」
「・・・・狐か」
「さすがや。血の一滴も浴びてへん」
くん、と鼻を鳴らして市丸は子供のように笑う。
死神の装束が黒いのは、血の色を目立たせない為だという。
それでもに関してそれは意味を為していなかった。一度だって、は血を浴びないし帯びない。
ただどこかの誰かの死の残り香だけを纏っている。いつも、いつも。
は心底不快そうに表情を歪めて睨み付けた。
一日の中で最も闇が深くなるこの時間、隠された牙が晒されるこのひと時。
市丸は肌を刺すようなこのの放つ殺気を愛していた。
他人にしてみればそれは狂ったものに見えただろうが、それでも市丸にとっては愛だった。
通路を塞ぐように立つ市丸には苛立って舌打ちをする。
「・・・消えろ」
「冷たいわァ。・・・僕はキミの上司やで?」
優しくしても甘やかしても傷つけようとしても、傷つけても、けして捕らえることは出来ない。
どうしたって手に入らない。だから安心して近づく事ができる。
市丸は無造作に手を伸ばし、の顎に指をかけた。
自分の顔に引き寄せて冷たい唇を一瞬だけ強く押し付ける。
何の感情も過ぎらないの瞳を至近距離で見詰め、
視線を少し落としてみれば小さな唇は少し濡れて月明かりに照らされていて。
市丸の腰に、ゾクリと、何かが駆け巡った。
「再会の挨拶は、もう終わったん?」
言葉を失ったに、市丸は口元だけで微笑んで耳打ちをする。
睦言を交わすようなその近さに、離れた場所に居る一護が険悪な表情をするけれど、それは無視をして。
「・・・・」
一瞬だけの表情が傷ついたように揺らぐのを、市丸は見逃さない。
ガリ、と耳を少しだけ強く噛んで距離を取った。
「ッ・・・!」
咄嗟に噛まれた耳を押さえたは市丸を睨んだが、そんなものは当然のように意に介さずに言葉を続ける。
「そないな顔したらあかんよ、」
冷たく、優しく突き放し、あやす様に。
悪戯が過ぎた子供に母親が言い聞かせるようなその声音は、底知れない感情を孕んでいるようだった。
「どういう意味だ、クソ狐」
「そのままの意味や・・・あの子供、今ここで殺したくなる」
そんなまともな“人間”のような顔をしないで。
容易くこの手に落ちるような弱い生き物の表情を見せないで。
大事なものを根こそぎ奪って、捕まえて、誰の眼も声も届かない場所に隠して、
蝶の羽根を毟るように残酷にじっくり時間をかけながら壊してしまいたくなる。
想像してくつりと微笑む市丸の眼には狂気の色が滲んでいて、
暫くそれを見ていたは心底呆れたように息を吐いて視線を逸らし、ボリボリと頭を掻いた。
「・・・・・肝心なトコは変わってねえのな、お前」
「くくく」
「笑うとこじゃねえよ」
市丸は苦々しく吐き捨てるを笑いながら心の中ではやけに冷たく考えていた。
この時間という名の流れが死んだ場所で根底まで容易く変われるものかと。
望んでも、希っても、どうしようもないものはあまりに多い。
努力は必ず報われるなんてそんな世迷言にはもう騙されない。
それはだって知っている。
前置きなくの頬に触れた市丸の指先はあの頃の唇のように冷たく、
けれど何も言わずに受け入れたはあの頃より少しだけ、自由で。
市丸の表情が僅かに歪んだ。
(僕を責めるんやったら、どうして)
(どうしてあの時に僕を置いてひとりで)
そっと指先を離した瞬間に市丸の鼻を掠めたのは、血の匂いではなく太陽の匂いだった。
「・・・ッ!!!」
焦れた様に叫んだ一護の声に冷たく視線を寄越して、市丸はゆっくりと脇差の柄に親指を当てた。
足元の蟻を見下ろすように感情の無い表情で見据えて薄く口を開く。
「喧しい子やなァ・・・その名を気安く呼ぶなや」
殺気が膨れ上がる。
唐突に、全身から汗が噴出すほどの圧倒的な空気が一護を襲った。
大きな足に踏み潰される瞬間の蟻はこんな気分なのだろうかと、そんな考えが頭を過ぎる。
けれど足は引かない。視線は落とさない。
その理由が、今、目の前にある。
誰にも譲れないひとが、取り戻したいひとが、目の前にいる。
「お呼びじゃねえんだよ、テメエは・・・!外野は黙ってろ!!」
「・・・ああ、こらあかん」
ふ、と。
一護の眼には刹那市丸の右手が霞んだように見えた。
その次の瞬間に頭上で何かが空気を切った音がする。
音がした方を眉を顰めて見上げ、そして、絶句した。
ドスンと重く地響きを伴った音が背後でしたけれど、意識はもう視線の先に囚われていて離れない。
血の雨が降り注ぐ。
生暖かいものが頬に当たり、滴って、落ちてゆく。
鼻腔の奥を刺すような独特の臭いが一護の脳を揺さぶった。
「なに、を・・・」
大きな門を支えていたはずの兕丹坊の片腕が、消えていた。
轟音のように響く兕丹坊の絶叫をBGMに一護は愕然として市丸に視線を戻す。
市丸は無造作に脇差を携えたまま、長い前髪の隙間からいつもの微笑を湛えている。
その視線が向かうのは一護ではなく兕丹坊で、一護ではない。
「片腕でも門を支えられるんは流石や。・・・せやけど、門番としては失格やな」
「・・・オラは負げだんだ・・・負げだ門番が門を開げるのは、あだり前のこどだべ!!」
「――なにを言うてんねや?」
各段に市丸の声音が冷たくなるのを静かに聞きながらは目蓋を閉じた。
自分から離れ兕丹坊に近付く市丸の足音がどこか遠くに聞える。
「わかってへんねんな・・・負けた門番は門なんか開けへんよ」
空気が、刹那揺れた。
「門番が“負ける”ゆうのは、“死ぬ”ゆう意味やぞ」
そして動いたのは一護ともうひとり。
「・・・なんで、・・・!」
喉の奥から絞り出すような一護の声は市丸の耳にも届いたけれど、視界は茶色の髪に遮られている。
斬魄刀を振りかざし市丸に斬りかかった一護のその猛撃を食い止めたのはだった。
衝撃に揺れる前髪の影に見えたの表情は、今まで見たどんな時よりもずっと傷ついた色をしていて。
やっと近付いたのに。やっと追いついたのに。
弾かれるように距離を取った一護は悲鳴のような声で叫んだ。
「なんでだよ!何でこんな事になっちまうんだよ、!!」
は言葉を返さずに、細く淡く刀身を煌かせてできるだけ酷薄に映るようにと微笑んだ。