何もかもが願う通りに叶うのなら、優しさだけを君に贈りたかった。

甘いお菓子だけを食べて生きてゆけるような、そんな世界だったなら。
子供が眠る前に思い描く夢の物語のように、全てが、希望と喜びに満ちていたなら。



「分からないわけじゃねえだろ?単純な選択肢だぜ、黒崎」



けれどもう随分と昔に知ってしまった。
生きるとは常に選び続けることだと。



「いつだって、そうだったろ?進むか、戻るか。YESか、NOか。勝つか、負けるか」



だから決意した。選ぶしかないのならば、心のままに。
己の心において進もうと。


の言葉に、ゆっくりと一護の目が見開かれた。
そこに滲むように浮き出る絶望から目を逸らさずに見詰めたまま、は、告げる。



「殺すか、殺されるかだ」



俺は俺の選択を支配し、誰にも委ねない。
誇り高く、誰の許しも請わない。



一護の斬魄刀を握る手が、ゆっくりと持ち上がる。

それは何かの儀式のように神聖な空気を纏い、
けれどその刃の煌きの向こうに見える一護は救いを失った幼子のような表情で。


双眸から零れ頬を伝い流れ落ちる一滴を見届けて、はやっと優しく、どこまでも優しく、微笑んだ。







これこそが俺の自由、最後の砦。

この玉座は譲らない。














44: nirvana













その日の流魂街の夜は、いつもより少しだけ騒々しく更けていった。
外れにある広場では織姫が兕丹坊の腕を治療している。

一護は少しづつ疲労が滲んでゆく織姫の横顔を離れた場所で見詰め、そしてゆっくりと自分の掌に視線を落とす。
繰り返し頭の片隅で響く声を聴いていた。



(単純な選択肢だぜ、黒崎)



掌の震えが、止まらない。


取り戻せると思っていた。
今思えばそんな保障も根拠もどこにも無かったのに、再び出会い名を呼べば微笑まれ、手を差し出せば握り返されると“信じて”いた。


けれど向けられたのは冷たい視線と拒絶の言葉と、冷涼と光る切っ先。
何度思い返しても揺らがない。なにひとつ。



の背後から伸びた市丸の斬魄刀を防ぎ、再び広がる距離。
その最中で見た最後の表情すらあまりにも酷薄で。


「ここまで来た事を悔いておるのか」
「・・・夜一さん」


闇に溶け込むようにいつの間にか一護の足元に居た黒猫は、夜風に髭を揺らしながら空を仰ぐように一護を見て囁きかける。
一護は瞼を伏せて小さく首を振った。


「後悔は、しねえ」
「ならば何故お主は絶望しておるのだ?」


薄く開いた唇から漏れる吐息のような返答に夜一は即座に切り返す。
それに動揺した一護は目を見開いて初めて夜一と視線を交えた。

黄金の瞳が月光を浴びて淡く揺らめく。


「・・・刀、を」


催眠術にかかったように、どこか呆然と一護が吐き出した言葉。
独白であり、吐露であり、懺悔の言葉だった。


「刀を、向けちまったんだ。・・・それだけは絶対に、したくねえって・・・思ってたのに」


あの時、あの瞬間。自分に裏切られたようだった。
抗えない何かに突き動かされて動いた腕を、今になって切り落としてしまいたいと思う。
織姫の掌の様に、護ったり癒したり、そんな風に優しくできていないものならば。

自分の言葉に再び傷ついたのか一護はそのまま無言になる。
夜一は双眸を細く薄めて鼻で笑ったが、その蔑む様な笑みはあの何をも拒絶する塀の向こう側、箱庭に居るに向けられたものだった。

濃い群青の空、そこに浮かぶ光の穴のような月を睨み上げ一護の背中越しに見たの姿を思い出す。


(儂ならば一太刀はくれていたぞ、


誰も望まない自己犠牲を自由と称し、何をも省みない傲慢さ。
愛には愛をと嘯きながら裏切りを繰り返す詐欺師のような男に、夜一もまたかつて悲しみ、今は寸分の狂いもなく激怒している。

返されるものがただそれだけならばもう容赦はしない、と。



「解せんな。まさかお主、が両手を広げて喜ぶとでも思っていたのか」



夜一の心底詰まらなさそうに放たれた声に一護の呼吸が止まる。
寸分の狂いもなく心の奥底まで暴かれて糾弾されているような響きだった。


「迷い子を迎えに来た訳ではあるまい?
攫われた姫君を助けに来たつもりでおったのか?
が自ら選んだ道を阻みに来たのだろう。
頼まれたわけでも乞われたわけでもなく、お主が、それを納得できないからとここまで来たのだろう。」


音もなく一護から離れてゆく黒猫の後姿は宵闇に紛れ、霞むよう。
ピンと天に伸びた細長い尻尾が凛とした生き様を現している。

振り返りもせず夜一は言葉を続けた。


「お主の刀はただ何かを傷つけ、殺す為に在るのか?」
「・・・、・・・」
「甘く諭すだけが親愛ではない。」


ここにきて一護はやっと、自分が慰められ、励まされているのだと気付く。そして急激に恥ずかしくなった。
自分の抱いていた覚悟がどれ程危ういものだったのかを痛感する。


「絶望するのは早いぞ、一護。まだお主はあやつの名を叫ぶことしかしていない。
次はまだ、ある。いつだってある。次はその手を伸ばせ。
握り返されなくともそれが何だと言うのだ。
選択肢が納得のいかない二つならば増やせば良いだけの事。」


はそれをしない。
用意された選択肢から望む結果につながる最善を選び、周囲を利用し、利用しつくし、ただ己の本懐を遂げようとする。
それを根底から砕きたいのならば、あの詐欺師の想定するあらゆる選択肢の範疇を越えなければならない。



「分からぬか一護、今は未だ圧倒的に弱いお主の勝機はそこにある。然るに、殺すか、殺されるか」



一護の掌の震えはいつの間にか止まっていた。
背筋を伸ばし視線を正す。

その気配を感じた夜一は振り返り、その一護の姿、双眸の光に目を細める。
そして一護の口から出た硬度の高い宝石のような声。



「奪うか」




夜一は酷く満足げに頷いた。

「ご名答」












「お疲れ」

兕丹坊の治療を続けていた織姫の背後から茶の入った湯飲みを差し出したのは一護だった。
織姫は突然の事に奇声を上げて驚いたものの、一護の瞳が先程までと違ってやけに晴れ晴れとしていることに気付く。


「あ、・・・だ、大丈夫?黒崎君」
「・・・ん?・・・ああ、悪い。ひでえ顔してたよな、俺」


汗だくになりながらも懸命に兕丹坊の治療をしていた織姫に、
何もせずただ突っ立っていた自分が心配されていた事を知り一護は苦笑いを零した。

どこまでも情けなく、不甲斐ない。
でも、それはもうやめる。そんな風に考える。


「大丈夫だよ、決めたから」
「決めた?」
「ああ」


一護の迷いのない表情に、織姫はそれ以上何も問うことはせず「そっか!」と頷く。
そしてあの、どこまでも冷たく微笑み一護と対峙していた死神を思い浮かべた。


初めて出逢ったはずなのに何故だか泣きたくなるほど懐かしい姿。
衝動的に名を呼ぼうとして、けれどその名が思い浮かばずに言葉にできなかった。

でも、今は知っている。
黒崎君が呼んだ名を覚えてる。


「私も、決めた」

次に出逢ったら名を呼ぼう。
大きな声で、必ず届くように。





「何を?」と問う一護に微笑みだけを返して、織姫は大きく背伸びをして空を仰いだ。