もしもこの腕がもっと大きくて温かく、
この世の何をも抱きしめられる強さがあるなら

他ならぬ君を抱きしめたい。

全ての悲しみと苦しみから守れるように。













ロイは冷静にイリスを見詰めた。目の奥で品定めをするように。
その視線を臆せず受け止め、イリスは再び口を開く。

「返答は必要ありません。私が決めた事です」

受取りようによっては傲慢とも高慢ともとれる言葉に、ロイは口元を緩ませた。
それはロイがイリスの言葉を“決意”だと受け止めた証拠。
しかし人の手で踊らされるわけにはいかない。

「私が人の思惑に縛られるような人間に見えるのかね、君は」
「いいえ」
「では巻き込むとはどういう意味かな」

イリスは軍人らしい姿勢の正しさで浅く息を吸う。
ここから先はもう後戻りはできないからこそ、だからこそ少し緊張していた。
今までの信念と世界を捨て踏み込むのは命を懸ける戦い。

贖罪というには裏切るものが多すぎるけれどそれでも私は思い出したのだ、と、イリスは思う。
自分は正しく生きたいのだと、思い出した。
人が定めた正義ではなく己の正義に殉じたいのだと。

「あなたの知らない事を私は知っています。となれば賢くも人を使い慣れた貴方なら私を利用するでしょう」
「なるほど、要するに君は利害の一致を示唆しているわけだな」
「私はあの人を救う人間にはなれない。しかし“手段”にはなり得ます」
「・・・・」


ふむ、とロイは目蓋を伏せて何かを考えて革張りの椅子の背凭れに体を預けた。
愚かだった自分を、現実を甘く見ていた自分をもう一度だけ嫌悪して目蓋を持ち上げる。
後悔する時間は終わった。


「話を聞こう、イリス」

イリスは小さく「感謝します」と呟いた。










VSエドの組み手は、エドの負けず嫌いな性格が災いして長時間に及んだ。
夕風に髪をなびかせ汗ひとつかかず涼しげな顔のままは、疲労困憊で地面に倒れこんだエドを見下ろした。
意地悪そうに微笑む。

「己の力を過信すると引き際を見誤る。で、最後にはこうなるわけだ。俺が敵なら死んでたな」
「・・・・・・・・うぅー・・・・・クソ、いってぇー・・・・・」
「生きてる証拠だ、ありがたく思っとけ」

の、どこか深い意味を匂わせる言葉にエドは「そうだよな」と思った。
痛い、とか、悲しい、とか、苦しいとか。
全部全部、自分が今ここに生きているからで。
生きるってのは痛いことだと思うのは簡単だけれどエドはエドらしく前向きに思った。

痛くても生きているのはきっと幸せなんだ。
自分以外の誰かを愛して、傍に居られるなら。


はクキリと首を傾げ、手を差し出して軽く微笑む。
それは自然な動作で、当然と言うように差し出された手で、ああやっぱりオレは幸せだと感じながらエドはその手を握り返す。
重力に逆らう力で引き起こされて顔が近付いた。

仄かな黄昏色の影がの顔に落ちていてエドの心臓がドキリと大きく鳴った。
それに合わせて少しだけビクリと痙攣した肩にの額が乗った。
はあ、と、深く吐き出される息が服を通り越して、飛び越えてエドの肌を温める。ほんのり煙草の匂いがした。
それがどうしようもなく愛しくてエドはぎこちない動きで両腕を持ち上げる。

抱きしめたい、とだけ脳は考えていたのでエドはの肩が少しだけ、ほんの少しだけ震えているのを見落とした。
「お前はさ」
のか細い声にエドの腕が止まる。
「お前は、幸せになる」
?」
「俺が保障する。お前は幸せになる」
「じゃあもだな」
「・・・・・」
が幸せになって、それでオレは幸せになるんだからさ」
は隠れて苦笑いした。
体重を預けてもビクともしないエドの体は、そのまま心さえも支えられているような錯覚をに見せる。
ああ、認めるよ、と、は口に出さず呟いた。

認めるよ、受け入れる。お前は確かに俺を好きなんだと。
だから、もうそれだけで十分だから、どうか、どうか。

僕の手を引く重さを思い知る前に。

「・・・なんでお前はそうなんだろうな」
「?」

困惑するエドに微笑みながらは、そっと願うように言った。
「・・・幸せになれ、エド」


無条件でリィナが願った想いが、今やっと分かった気がした。
運命とか罪とか傷だとか関係なく幸せでいて欲しいという想い。

それが自分に向かうとなればやっぱり甘えられない優しさだったけれど。









に徹底的にしごかれたエドが風呂から上がると、そこにの姿だけが無かった。
瞬間エドは言い知れない不安に駆られ、慌ててアルに駆け寄る。
「アル、は!?」
その形相に吃驚して、アルは読んでいた本を危うく落としかけた。
「ど、どうしたの兄さん?」
はどこに行ったんだ!」
「キッチンだけど・・・」
「キ」

キッチン、と声に出さずに復唱してエドは体中の力が抜けたようにアルの目の前に座り込んだ。
「兄さん?」
「・・・情けねえ・・・」
たった一瞬、姿が見えないだけでこんなにも取り乱してしまうなんて。

だけど、とエドは思った。
だけどは一瞬でも気を抜いたら居なくなってしまう、気が、するから。

「・・・っくしょう!」
困惑するアルを残して、エドは大股で歩きながらキッチンに向かった。
バタンと扉が閉まってやっとウィンリィが口を開く。
「何アレ、エドってば何か変じゃない?さん相手だと」
「うん・・・」
何となくエドの恋心を察しているアルは困ったように曖昧に返事をした。

そして、変じゃなくて必死なんだよ兄さんは。妥協とか知らないから。と思った。
そんな人が僕の兄さんなんだよ、と誇らしくなってアルが笑い出すとウィンリィは更に困惑して首を捻る。
アームストロングとピナコは顔を見合わせて微笑ましそうに頷くだけだった。

 


!」
キッチンに駆け込んだエドが目にしたのは手馴れた動作で料理をするの姿で、一瞬固まる。
その様子をは切り終えた野菜を片手に呆れたように振り返り

「何度も言うが人の名前をイチイチ叫ぶな」

と半ば呆れたように言った。
しかしキッチンに満ちた食欲をそそる匂いにエドの腹がギュルーと盛大な音を出すと、
は一瞬目を見開き、次に盛大に噴出した。

「くく、はははは!腹に猛獣でも飼ってんじゃねえか?」
「わ、笑うなよ!!」
「笑わせんじゃねえよ!」

屈託無く笑うに、顔を真っ赤にしながらエドはもう何でもいいやと思った。
笑い続けるの顔を見詰めると胸の奥に広がるものがある。
名前をつけるならこれはきっと愛しさだろう、と、エドはまるでそれを味わうように目の奥に焼き付けた。
きっとこの感情を覚えていれば何もかもを乗り越えられると信じて。



この腕は小さくて温度も無いけれど
この世の何をも抱きしめられる強さを手に入れてみせるから

他ならぬ君を抱きしめさせて欲しい。

全ての悲しみと苦しみから守れるように。