「せんぱいせんぱーい!先輩!」
「また五月蝿いのが来た・・・・」

空調の効いた大学内のカフェで紅茶を飲んでいたは、盛大に眉間に皺を深くした。

五月蝿いの、というのは後輩の火原である。
星奏学院大学の理学部に通うには縁の無い相手だったはずだが、
王崎という共通の知り合いが居たことで懐かれてしまっていた。

向かいに座っていた王崎は機嫌急降下のの表情を見て苦笑いをし
読んでいた本を閉じて視線を上げ、火原に向かって小さく手を振った。

「やあ、火原くん。・・・どうしたの、大学まで来るなんて。」
「へっへっへー!聞いてよ!オレとうとうマスターしちゃったんだよね、マーラーの交響曲!」
「それは凄いなァ。コンクールが終わってからもずっと努力していた結果だね」

どーん、と胸を張って言う火原だったが、それに目を輝かせて反応したのは王崎だけだった。
は静かに紅茶を飲んで、自分のレポートに集中している。

火原はガックリ項垂れて、余っていた椅子を引いての隣に座った。
背凭れを前にして腕を乗せ、ブーッと拗ねたように睨む。

先輩は褒めてくれないの?」
「僕が?・・・生憎、前にも言ったけどその方面には疎いんだ。何を褒めるべきか見当もつかないね」
「努力したのは褒めてくれてもいいじゃん!?」
「それは君の義務だろう。その道を選んだのは君だ」
「・・・・も、もー!王崎せんぱーい!」

口ではに全く勝てない火原は、子犬のような目で王崎に助けを求めた。
王崎は再び苦笑いをして、に視線を向ける。

。本当に凄い事なんだよ?」
「・・・・」

王崎の言葉には冷たい視線を返すしかしない。
そして手早く荷物を纏めると椅子から立ち上がった。

「研究室に戻る」

返事を待たずに背を向けたはそのままスタスタとカフェを出て行くが、
火原は追わなかった。

不思議に思った王崎が視線を向けると、火原はくすぐったそうに微笑んでいる。

「どうして笑ってるのかな」
「へ?ああ、王崎先輩気付かなかった?」
「え?」

火原が何かを指差したので見てみれば、ソーサーの下に挟まれた一枚の映画チケット。
最近話題の娯楽映画だった。

「実は前にオレ、観たいって話したんだ。へへ、嬉しいなぁ、先輩覚えててくれたんだ」
「でも、一枚というのは」
「甘いよ王崎先輩。これはつまり、デートのお誘いなわけ!」

火原は心底幸せそうにそう告げてチケットを手に立ち上がる。
そしてが去った方向へ走って行った。

王崎はそれを眺めながら、
きっとあの角を曲がったあたりには待っているのだろうと思う。


なるほど、まったくお似合いな二人だ。
王崎は深く頷いて、再び本を広げた。



遠くに響く交響曲第3番第3楽章。
それは暖かな午後のことだった。