普段から車通りの少ない道の、横断歩道。
信号の色は今変わったばかりでまだもう暫くは赤のまま。
急ぎの用も無いのだからと骸はただじっと赤い光を見詰て立っている。

耳を澄ましても車が近付く音は無い。
だからその足音は骸の耳に、やけに深く響いた。

例えばこの足を支える地面の割れ目の底に居るように、反響して。



骸の隣に並んだ男は大きな欠伸をして信号機を見上げる。赤。
車は一切通る気配が無いけれど男も骸と同様に足を止めたまま動かない。
骸は暇つぶしでもするかの様にその男の横顔を眺めた。

少し猫背で、眠そうに細められた目は覇気がまったく無い。
皺だらけのシャツ。草臥れたジーンズ。ボロボロのサンダル。
普通なら不潔感を漂わせる姿なのに、どちらかといえば愛嬌さえ感じさせるから不思議だと骸は思う。

ゆったりと、男の視線が骸に向けられる。
けれどその目には自分に向かう興味は一切無いと察知して骸は少しだけ不愉快になる。
現に男はすぐに視線を前へ戻して再び欠伸をした。

骸は一瞬眉を顰めて拳を握ったが、少し何かを考えて体の力を抜いた。
視線を外し同じように前を向いて口を開く。

「青に、なりませんね」
「せやなァ。ここの信号長いからなぁ」
「・・・そうですか。」

普通に返事が返ってきたことに内心驚きつつ骸は言葉を続ける。
昨日の今頃はまだ遠く海の向こうに居たな、なんて、頭のどこかでボンヤリ考えていた。


「・・・車、来とらんのやし渡ったらええんやないの?」
「暇を持て余してるんですよ。丁度いい。」
「さよか」

言葉を交わしながらも男の興味はやはり骸には向けられず信号機の赤い光に向かっている。
けれどもう気にはならなかった。
無音の中で僕らは二人きり、深い穴に居るのだと思えば。


男は前置きも無く足を動かした。
たん、と、地面に触れる音に骸は視線を男に向ける。
横断歩道を渡る背中を見詰め、信号機に目をやればいつの間にか青になっていた。


「あなたの名前は?」
や」


即座に返された男の、の声は意外と響かず骸は理解する。
穴に落ちて叫んでいたのは自分だけで、はそれをただ覗き込んでいただけだと。
だから地面を通過する足音だけがこの耳に大きく届いたのだ。

骸は青信号が点滅しても動かずに再び赤色を迎え、耳を澄ましてみた。
遠くに車の音。
もう一度あの足音が響けば、今度はこの穴に引きずり込んでやろうと考えていた。

例えばセイレーンのように、時に優しく囁き呼んででも。