「どうでした?昨晩は」
「・・・別にどうもあらへんよ。飯食って寝ただけや」
「そうですか」
二人で並んで歩きながら学校を目指す。
はいつものように寝むそうに目を半分伏せていて、髪の毛は寝癖だらけで。
彗はそれに手を伸ばしそっと手櫛で整えながら自嘲する。
何も変わらないでこうして二人で生きていければと願いながら、それでも何かが変わればいいのにと思っている。
あからさまな矛盾なのにどうしたらいいのか判らない。感情の一つ一つに名前があれば、もっと分かり易いのだろうか。
「・・・彗」
「はい」
「今からでも、遅くない」
の言葉に彗の手が止まる。
指先からするりとの細い髪が離れて、それが何故だか無性に悲しかった。
降り返るの目には、どこまでも絶望が漂っている。
「離れてもええんよ?」
その言葉と同時に彗はを攫うように抱き締めた。強く。
そして耳元で囁くのは今も昔も変わりようがない本心だけ。
「俺はアンタを選んだんです」
過去も、故郷も、なにもかも、全てを切り捨てて。
ACT7 スティング・フレバー
「どうだった、昨晩」
「・・・別に、何もないッスよ。飯食って、寝ただけで」
「そっか」
安堵して胸を撫で下ろすツナに弱弱しく微笑んだ獄寺は、窓の外に目を向けた。
低い位置に雲が漂っている。
自分の今の気分とよく似ている、と獄寺は思った。
敬愛する十代目が近くにいるのに気分は低迷したままだ。今朝、一度だけ振り返ったの目を見た瞬間からずっと。
どうしてこんな風に訳の分からない感覚で心を乱さなければならないのだろう。
苛立ちと悲しさと、少しだけの焦燥感。
獄寺はガタリと椅子を鳴らして立ち上がった。驚くツナに視線を向ける。
ゆっくりと歩み寄って、見下ろす視線が申し訳なくて膝を折る。
同じ歳の男に教室で跪かれてツナは物凄く焦ったが、獄寺はそれに構う余裕は無かった。
「十代目」
「な、なに?」
いつになく真剣で思いつめた様子で見上げる獄寺にツナも姿勢を正して答える。
それはツナが生まれながらにして備えていた真摯さだった。
向かい合う人間が抱く感情に相応な態度を瞬時に、無自覚に選び取る。
人の上に立つ者に不可欠なものを、ツナは持っている。
獄寺はそのことに感動しながら口を開いた。自分はこの人の部下なのだと思うとそれだけで救われる。
「十代目はどうしてアイツを、あのメガネを気に入ってるんスか」
「あのメガネって、・・・さん?」
「はい」
「どうしてっていうか・・・だって、間違った事は言わない人だよ?」
「・・・・そうですけど」
でも優しくはないですよ。
言葉を飲み込んで獄寺は俯いた。自分がただツナよりも後ろめたいものを多く抱えているだけなのだと思ったからだ。
そんな自分が大事な十代目の隣に誇り高く立てるだろうかと思考が揺らぐ。
すっかり黙り込んでしまった獄寺を見詰たツナは、思い出したように口を開いた。
「でも、珍しいね。獄寺君が誰かを知りたがるなんて」
「・・・、・・・・!」
そうだった。
自分の世界は、昨日までは確かに自分と十代目だけで形成されていたはずなのに。
性質の悪いウイルスのような存在が脳を掻き乱す。
ツナの何気ない一言に獄寺は酷く傷ついたけれど否定はできずに、ただ、俯くだけだった。
この日一日は平和そのものだった。
獄寺のダイナマイトは一度も出番はなかったし、ごく平凡な、有り得ないほど何の変哲もない一日。
結局あれからとは一度も顔を合わせなかった。
今までだってそうだった。同じ学校にいてもほとんど顔を合わせなかったのだ。
けれど昨晩ほんの少しの間一緒に居ただけで、急激に違和感を感じてしまう。
けして楽しい時間ではなく、居心地が良いものでもなかったのに。
帰る途中に寄ったコンビニの袋を手にマンションのエレベーターに乗った獄寺は、短く息を吐いて壁に背中を預けた。
やがて静かにエレベータは動き出し、胃が少しだけ浮遊するような感覚が襲う。
(・・・またあの部屋に帰るのか)
獄寺はそう思って、目蓋を閉じた。
明かりもついていない、小さな箱の中のような場所に。
過去に住んでいた自分の家はただ広くて、どうしようもなく広くて、家族と住んでいるなんて感覚は無かった。
そこから飛び出してツナの元へと目指してみても結局自分はこうして一人だ。
昨晩だけは、どうしてだろう、思い出しもしなかったけれど。
「・・・阿呆らし」
呟きと共に軽い機械音が響く。
扉が開いてエレベーターを降りるとすぐ近くが獄寺の部屋だ。
チェーンに繋いだ鍵をポケットから取り出してドアを開けると、いつもとは違う匂いが一瞬獄寺の鼻腔を掠めた。眉を顰める。
それは、の匂いだった。
すぐに消えるだろうそれを少しだけ勿体なく感じて、獄寺の機嫌は急下降する。
「どうだっていいんだよ、どうせ」
どうせもう二度と昨日のようなことは無い。
今までと同じように殆ど接点もなくなって偶に姿を見かけるだけだ。きっと。
忘れた頃に出逢って、喧嘩をして、またそれの繰り返し。
築きあげるものは何も無く、ただ毎回リセットされてゆくだけの関係。
それを心のどこかで寂しいと思うほうがどうかしている。
自嘲して、獄寺が部屋の中へ足を踏み入れようとした瞬間、隣の部屋の扉が開いた。
空き部屋だったはずなのに、と、獄寺が視線を向けると。
「・・・ああ、お帰り」
寝惚け顔のが顔を出していて、獄寺は文字通り固まった。
「どういう事だ、アァ!?」
「・・・やかましいわ、そんなんお前の口出す事やあらへん」
二人並んで夕日を見ながらの一服。
ベランダの仕切り板越しに交わす会話は剣呑としているけれど、獄寺は先ほどまでとうって変わって元気だった。
獄寺からはの姿は見えないけれど、が吐き出した煙草の煙は見える。
「一緒のマンションってのも納得いかねえけどな、なんでよりによって隣なんだよ!」
「なんや坊、住む場所決めるんにもイチイチお前の許可が必要や言う気か?脳ミソ洗濯して出直して来ィ」
「てめ・・・!」
「近所迷惑ですよ、二人とも」
最後の台詞は彗のもので、その直後ひょいと顔を覗かせる。獄寺は目を見開いて煙に咽た。
ガホガホと咳き込む獄寺を冷たく一瞥した彗は何でもないように口を開く。
「今から夕飯なんで、此方に来ませんか」
「ああ!?」
「・・・さんに聞きました。貴方の食生活は悲惨だそうで」
獄寺は自分の冷蔵庫の中身を思い出して言葉に詰まる。
彗はにやりと笑って言葉を続けた。
「昨晩はさんに貧相な食事を用意していただいて感謝しています。そのお礼ですよ」
獄寺は勿論、怒り爆発だった。